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★担当編集者が見た「クリシン・ワールド最終章」

「なぜいま、世界史なのか? なぜ『最後の作品』が世界史なのか?」

























2013年4月13日、『栗本慎一郎の全世界史〜経済人類学が導いた生命論としての歴史』(技術評論社)が刊行されました。
 

同書は、タイトルが物語るように、経済人類学者・栗本慎一郎氏が「世界史」をテーマにまとめあげた一冊で、『意味と生命』『パンツをはいたサル』以来、アカデミズムの世界で40年にわたり活躍してきた氏の事実上「最後の作品」にあたります。



いわば、引退試合。それがなぜ世界史? 栗本氏のことを詳しく知らない読者にとっては、そんな疑問も湧いてくるかもしれません。でも、過去の栗本作品をたどっていけば、それは当然の帰結。なぜなら、栗本経済人類学の本質は「社会を生命体として捉えること」にあるからです。



社会が生命体? ……それは決して比喩ではなく、実際に社会を生きているものとして見なし(ヒトが細胞にあたるわけです)、そこからこの世界に起こる現象を捉えようとするのが、栗本氏の学者としての一貫した目線。となれば、歴史を扱う意味も見えてくるでしょう。





「つまり社会や共同体もまた生命としての身体性を持ち、要するに生命なのである。とすれば社会の「歴史」というものは、生命体の少しずつの「変態」ということでもあるのではないか。そうした各システムや階層の連なりの中にわれわれは生きている」

(本書「まえがき」より)



では、副題にもある「経済人類学が導いた生命論としての歴史」とはどんなものなのか? じつは、ここが本書を読み進めていく上での最大のカギになります。

歴史を「生命体の変態」として捉えた場合、問題になってくるのは「いかにして生命全体を見渡すか?」。「全体」ではなく「部分」、つまり、「木を見て森を見ず」では歴史の本質は見えてこないことになりますが、それは何を意味するか?



言うまでもありません、東洋史と西洋史、日本史……といった具合に地域によって歴史をバラバラにし、さらには古代史、中世史、近代史というふうに時代ごとに細分化させて捉えること自体が「誤り」だということ。そこで出てくる言葉が「全世界史」という概念です。



 

教科書で扱われている「世界史」ではなく、「全世界史」。

この視点が明瞭になってくると、既成の歴史の本が世界史と称しながら、結局のところ「ゲルマン人と漢民族の都合で作られた、非常に偏った限定的なもの」であることが否応なく見えてくるでしょう。

この全世界史(いわば地球文明史)の舞台になるのは、地球の体幹部にあたる「ユーラシア」です。下記の地図をご覧になればわかりますが、ユーラシアを中心にすると中国も西ヨーロッパも、オリエント(メソポタミア〜東イラン高原)を制覇したアレクサンドロスの王国も、どれも「辺境」にあることがわかるでしょう。



















































とはいえ、ユーラシアと言っても、いまのロシアや中央アジアの一帯にそんなに優れた文明や文化があったとは思えない。……そんな声も聞こえてきそうですが、果たしてそうでしょうか?

栗本氏が注目しているのは、ユーラシアの地を縦横無尽に疾駆していた遊牧騎馬民の存在。実際、中国史に登場するキォンヌ(匈奴)もチュルク(突厥)もシァンピ(鮮卑)もすべて遊牧騎馬民の国家です。メソポタミア文明の核になったシュメール人も、ユーラシアの草原からやって来た遊牧民の一派だったでしょう。



「シュメール人は自分らを『人』と呼んでいたが、これも遊牧騎馬民族国家の特徴のひとつだ。国家を領域として捉えるのでなく、人の集合として考えるのは、基本的に遊牧民の価値観である。



具体的には南シベリアからスキタイ系の文化に伝えられた価値観である。
もちろん、シュメールの方がいわゆるスキタイより古いものだが、十分にその原点が近似したものであることを科学的に予測させる」

(第2章より抜粋)

たとえば、北満州に拠点を持っていたシァンピからは、北魏を経て隋・唐が生まれたほか、ジャンジャン(柔然)、チュルク(突厥)といった遊牧国家の建国にもつながっています。

 

中国史の土台を成す唐は北方遊牧民がつくった国家だったわけです。そもそも、その源流となったシァンピ(鮮卑)について、皆さんはどれほど注目してきたでしょうか?



クリモト世界史をひも解けば、隋や唐、もちろんもっと前時代の漢などよりも、シァンピこそが東アジア史(ひいてはユーラシア史)の形成にきわめて重要な役割を担っていたことが見えてきます。

































 






あるいは、西ヨーロッパの成立に深く関与していたパルティア帝国も、遊牧騎馬民との深いつながりが指摘されます。

ローマ帝国と同時代に存在し、むしろローマを凌駕する先進地として繁栄していたこの大帝国が「アスカ」と呼ばれていたという本書のくだりには、きっと驚く人も多いでしょう。





「……パルティア人もスキタイ人も、やや広い意味では同じ騎馬遊牧民であった。この人たちの中心はアスカ(アスク)人、またはサカ人で、文明はいったんこのアスカ人の帝国の手に渡り、そこからその一部ゲルマン人にヨーロッパを託すという形で進展していったのだ」

(第3章より抜粋)

このほかにも、現在の国際金融の担い手であるアシュケナージ・ユダヤ人の“本当のルーツ”であるカザール帝国、8〜10世紀に存在していた謎の草原の帝国・キメク汗国など、一般の歴史書ではお目にかかれない国名が世界史のキャスティングボードを握った大国として数多く登場します。



 

日本に関しても、あの蘇我氏がユーラシア(北満州)から東北日本経由で日本列島に渡来してきた騎馬遊牧民の一派であったこと、彼らの登場がその後の日本史の基本フレームになった「二重構造」を生み出したこと、この二重構造が日本の飛躍的な経済発展の起爆剤となったことなど、興味深い指摘がつづられています。



































 

そう。歴史の「全体」を見渡すことで、これまで闇に埋もれ、隠されていた真実が浮き彫りになる。その浮かび上がってくる世界像にこそ、「生命論としての歴史」の真骨頂があると言えるのです。

 

本書は総ページ数が224ページと、過去の栗本作品と比べて必ずしもボリュームが厚いわけではなく、文章自体も比較的平易です。でも、通史とは大きく異なる視点が各章にギュッと凝縮されている分、そんなにスムーズには読めないかもしれません。



もちろん、通史と大きく異なると言っても、これまでの歴史書で取り上げられてきた個々の事実が「間違っている」と言いたいわけではありません。問題は視線です。だから栗本氏は言います、「哲学と生命論なき過去の歴史学はすべて退場せよ」と。



「社会が生命体であると言って、“ああガイア論のことですか”などという人は何もわかっていないから、この本を読んでもらいたくはないね。

冷たいようだが、これはわかる人にしかわからない。まあ、昔からずっと言ってきたことだが……」

(栗本氏談)

 

そうは言いながらも、読者に向けてこんなメッセージを遺されています。



「要するに本書は少なくとも半世紀以上の、経済人類学による真実に対する愛と追求の末の結論を、一度、筋の通った形で後進に伝えておこうというものなのである」

(「あとがき」より)

真実に対する愛と追求の末の結論。……栗本氏の作品には、首尾一貫して、真実に向き合っているがゆえの冷徹さと、同時に、ものが見えるがゆえの絶望から生まれた優しさが交錯しています。

本書をじっくり読み進めていけば、読者を突き放した冷たさの向こう側にきっと人に対する「無償の愛」が感じられるでしょう。



「そういうわけで皆さん、現時点での私の歴史についての遺書をお届けしておく。遺書というのはオーバーで、残し書きという程度であるべきかもしれないが、いずれにしても本という形ではもう終わりだ。研究と思索は続けるが、多分、このあとはもう猫について以外は本にはしないだろう。(中略) その意味で読者の皆さんさようなら」

(「あとがき」より)

言うまでもなく、「ニューアカ」(ニューアカデミズム)、「朝まで生テレビ」、「料理の鉄人」、「衆議院議員」……メディアのなかを遊牧民のように疾駆してきた栗本氏のイメージは、どれもきわめて表層のものにすぎません。

その表皮を一枚一枚むいていくと、ユーラシアをはるか超え、宇宙とすらながった唯一無二のクリシン・ワールドが広がっています。ぜひ、手に取ってまずはその世界観を感じとり、そして驚いてください。

担当編集者としてあえて言います、これが「本当の歴史」なのです、と。

手に取りやすい、でも、とても奥の深い一冊です。一度にはアタマに入ってこないかもしれませんが、栗本氏が言う生命論の本質が汲み取れるにつれて、そのすごさ、面白さがジワジワと効いてくるはずです。

「長嶋茂雄の勇姿を引退試合で初めて見た」……あなたがクリシン・ワールドに迷い込んだそんな「一見さん」であっても、大丈夫。

「この世界の本当のことを知りたい」という思いがどこかにあれば、きっと栗本氏は「まあ読んでみなさい」と言うはずです。(長沼敬憲)





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