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第1回 鹿島神宮と「扶桑国」の謎

栗本先生の本、今回は日本人のルーツについてもかなり言及しています。コアな栗本ファンはご存じかもしれませんが、たとえばこんな感じ。。。


「古墳時代前期には日本列島にはいくつかの王国が出現していた。



北海道から東北地方にかけての扶桑国、出雲を中心にした文身国、奈良三輪山を中心にした三輪王国、現大阪のあたりの大漢国、北九州の邪馬台国の後身の王国、北陸越後を中心にした越の国などである。

以上は最低数の候補であって、3世紀前半まではもっと多数の小王国が存在した。そして4世紀に各地である程度、統合と連合の機運が高まっていた。

この中の扶桑国が、内部に日本と名乗る小王国を抱えていた。北海道の日高、あるいは日高見の王国である。

そして扶桑国が北海道、東北地方から次第に南下、やがて北関東まで力を広げた。この時、明らかに後からユーラシアから来た大勢力、蘇我氏が参加し、全体を指導することになる。

蘇我氏が扶桑国を支配する(王として迎えられた)ことは、鹿島神宮が扶桑国の聖なる拠点として作られたあたりで明確になる。だから鹿島神宮はさして古いものではない。古くはないが、最初から重要な神宮だ。

理由は明らかで、鹿島神宮はペルセポリスと同じく、聖方位で建てられているからである」


2013年4月13日刊行、「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)より抜粋。

 

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このページでは、本書を初めて読まれる方、その魅力をまわりの人に伝えたいと思っている方を対象に、栗本先生の「全世界史」のエッセンスを紹介しています。「面白い!」と感じられた方はぜひ本を手に取って、全体を通読してください!

 

第2回 世界帝国アスカ=パルティア

ローマが繁栄した時代、キリスト教が生まれた時代、その東方、より強大な影響力を持った帝国が存在していました。その帝国の名はアスカ。。。教科書では触れられていない、噓みたいな本当の話。。


「アレクサンドロスが外した王道である草原ルートをも押さえ、東西の交流を本当に支配し、歴史の真の動因を形成した大帝国がアスカである。



ヨーロッパ名はパルティアで、重要な時期重要な場所において500年にも及ぼうとする長期(前247〜後226年)にわたって存在した帝国だった。



パルティア帝国が遊牧民の帝国に特徴的な二重性(二重の王、二重の都市、二重の官制、あるいはついには二重の帝国、双子の重視)を持った国だったことも、本来はアスカと呼ぶべき国だったこともほとんど知られていない。愚かなことだ。



繰り返すが、このパルティアがなぜアスカという王朝名を持ち、アスカの国すなわち安息国と呼ばれるかと言えば、ただただ皇帝たちが自らそう名乗ったからである。だから、アスカが本名、それしかない。



日本のアスカの名称は、ユーラシアの草原を通ってここから来た、これもこれしかない。聖徳太子は、本当は、首都の名だけでなく国の名をアスカとしたかったと思える。」

2013年4月13日刊行、「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)より

*わかりやすさを考慮し、本文は若干編集しています(完全な引用ではなく、必要箇所の抜粋になります)。

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第3回 「ユーラシア」こそ世界の中心

栗本先生いわく、歴史の本当の舞台はユーラシア。。。そこは躍動する生命の源泉。「辺境」のゲルマン人、中国人(漢民族)のように、記録すること、巨大建造物を残すことに固執しない、強く、自由な遊牧民たちが疾駆する世界。。。日本人の祖先もまた、北満州を経て海を渡り、まずは東北日本へとやって来ました。アスカ(飛鳥)というコトバに象徴される先端の文化を携えて。。。



「西アジアの草原は先進地域で交易にとって重要な道だったから、常にその時代時代の武力最強の勢力が支配していた。

武力最強というのは、パルティアやアケメネス朝ペルシアのような国でさえ抑えきれない勢力ということでもあった。

前4世紀に、パルティアを破ったアレクサンドロス三世大王は一時バビロニアもアフガニスタンもインドも支配したがついに草原の地域に力は及ぼせなかった。



アレクサンドロスは哲学者アリストテレス(王家の家庭教師)の直接の弟子であり、若いが知識も豊富であった。

そこで、東ペルシア高原を支配するころからその地における信仰上の救世主ミトラを自ら名乗るようになる。東方のミトラ教の世界をまとめることを望んだのである。


シュメール人と同じくミトラも、一見、この地から北メソポタミアやコーカサス方面に及んできたように見えるが、実はそこにも「持ち込まれた」ものだと気づいたに違いない。

だから、彼のチュー川方面やモンゴル方面への関心はほぼ本物であった。そのアレキサンドロスは当然、インドではなくもっと北の西アジアの草原を押さえることを希望したが支配はできなかった。手も足も出せなかったと言える。



もっとも、ここをも支配しきったのは、歴史上、6世紀のチュルク(突厥)、8世紀のキメク、9世紀のカザール、13世紀のチンギスカンのモンゴル帝国だけである。」



2013年4月13日刊行、「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)より

第4回 ヨーロッパ・イスラムが怖れた「カザール帝国」

「栗本慎一郎の全世界史」には、前回紹介したパルティア(じつはアスカ帝国)のように、歴史の教科書ではなかなかお目にかかれない「強国」がたくさん登場してきます。こちらのカザール帝国も同様。国際金融の担い手たるユダヤ人(アシュケナージユダヤ人)の起源が、この国にあることを知っていましたか? パレスチナに起源を持たない彼らがなぜエルサレムを奪い、イスラエルを建国したのか。。。

 

「だが、この帝国では政治史以外にも驚くべきことが起きていた。カザール帝国皇帝は8世紀(およそ740年ころ)にユダヤ教に改宗する。


このユダヤ教に改宗したカザール帝国支配層こそユダヤ人の今日における主流派(約9割)たるアシュケナージ派の起源である。

言うまでもなく、カザール人は民族的にはダビデやソロモンのパレスチナ人とは関係なく、チュルク人である。広くはスキタイ人だと言っても良かろう。だから、スキタイの本名たるアスカ(エシュク)の音が入っているのだ。



アシュケナージ・ユダヤ人は現ユダヤ人人口の圧倒的大多数を占める主流派だ。現在のイスラエルでも9割近い比率を持つ。

学問や芸術に活躍するユダヤ人や、経済で世界をリードするユダヤ人においてはほぼその全部である。我が経済人類学の祖カール・ポランニーもまたこのユダヤ人である。

本書は政治に対する何の特定的意図を持たないが、もともとほとんどがパレスチナに起源を持たないはずのユダヤ人主流が、2000年を経て「故郷」に戻って現イスラエルを建国するという「熱情」に理解を持てないのも事実である。」

2013年4月13日刊行、「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)より

第5回 遊牧の大帝国「キメク汗国」

これまでパルティア(アスカ帝国)、カザール帝国(アシュケナージユダヤ人の起源)という、一般の世界史本が深く取り上げない「影の大国」について取り上げてきましたが、もうひとつ忘れてはならないのが「キメク汗国」の存在。wikiにすら載っていない、8〜10世紀に存在した草原の大帝国。。。キメクを知らずして世界史は語れない、というのが栗本先生からのメッセージです。

「柔然の後の世界大帝国チュルクが滅んだ(連合が解けた)あと、ユーラシア中央の草原には8世紀にキメク汗国が成立した。これが歴史的に非常に重要な意味を持つ帝国であった。


キメクのおかげで紀元前からあった東西の交易や交流は維持された。そしてそのルートにおける安定が維持された。

キメクはイミとイメクという満州ホロンバイル地方出身の双子部族を軸とした連合国であった。またも満州である。

現在の中国領を出身地としているが、漢民族は全く関係を持てず、ゆえに中国名を持たない。

そのため、中国人が作った歴史書に登場しなかった。これが無名のゆえんである。しかし、草原の道の主要部を押さえた超重要な帝国である。

キメク汗国は最盛時、その西に接するカザール帝国とも並立していた。キメクもカザールも軍事的にも経済的にも東ローマ帝国をしのいだ。


この重要なキメク及びカザールについて、中国ではほとんど情報がなかったし、ゲルマン人はかつての支配者なのでそれを論じたがらなかった。


8世紀から10世紀にかけての東西を繋ぐ大帝国キメク、これを無視したことは、旧来の歴史教科書の最大に近い誤りである。


これなしに、8世紀以降のアジアとヨーロッパを繋ぐ歴史の流れは理解できない。よって高校の教科書では世界史の流れが理解できないのである。」

2013年4月13日刊行、「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)より

第6回 シァンピ(鮮卑)、コマ(高句麗)、フーユ(扶余)

今回は東アジア、満州に目を向けてみましょう。そこには「鮮卑」(シァンピ)と呼ばれる、遊牧騎馬民の大国が存在していました。名前を聞いたことがある人もいると思いますが、鮮卑の影響は歴史の教科書で語られている以上のもの。もちろん、日本史も大きな影響を受けています。以下、「全世界史」より関連部分を抜粋しましょう。



「ヨーロッパの歴史は、最初、アジアの動きに「支配」された。あるいは、少なくともその契機をもたらされた。


ただし、これまでの歴史家が言うようなメソポタミア→ギリシア・ローマ→ヨーロッパの流れはない。

どう意外だろうと、モンゴル高原→セミレチエ→コーカサス→ドナウ西→西ヨーロッパの流れである。グレコ・ローマン文化はたかだかその傍流を形成した。



そのモンゴル高原の前の段階には、実は、これまた非常に意外でも北満州の存在がある。北満州からは、東へ向かって海を渡って日本列島へ来る道もある。



実際に4世紀には、西へ民族が向かってドナウ川を渡ることもあったし、東へ向かい日本海を渡って「日本を作った」集団もあった。ドナウを渡ったのは西ゴート族であり、日本海を渡ったのは蘇我氏の集団である。



いずれもシァンピ(鮮卑)とフーユ(フーヨ、扶余)の動きを直接のきっかけとしていた。

(シァンピの)本隊の部分は、4世紀から満州の南方に向かう。南に向かったシァンピの歴史的意味は、隋・唐という統一王朝を作り4〜8世紀以降の中国の歴史の土台を形成したことである。

この時期を踏まえて、7世紀初頭に大統一国家・唐(618ー907年)が生まれる。

地方を道、州、県に分け、律令格式を整備することになる、この大国家もまたはっきりシァンピが作ったものであった。4世紀に始まったシァンピの大移動はついに中国史の大心臓を作り出したのである。」

★2013年4月13日発売「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)より


アジア、日本のみならず、ヨーロッパの歴史にも強い影響を与えたシァンピ(鮮卑)。。。ユーラシアを疾駆した遊牧騎馬民の大国が、大国・唐を作り、中国史の流れも決定づけたのです。

第7回 太陽のネットワークと聖方位

今週土曜日(13日)に発売になる、「栗本慎一郎の全世界史」。発売後も内容をチラリチラリと紹介をしていきたいと思いますが。。。笑。今回は、クリシンファンならば知っている人も多い日本列島の「太陽のネットワーク」、そして「聖方位」についてお伝えします。





「日本列島の文化は、ほぼ全体に太陽と星の位置を意識した方位のネットワークを張り巡らせていたことを基軸にする。

夏至と冬至時におけるそれぞれの日の出、日没地点を結んだ(夏至線と冬至線の)ネットワークは、世界のどこにでも見つかるものだが、日本の縄文時代(前1万2000年から前3世紀)のものは明らかに「異常なほど」精密なものだ。



巨石文化ではないにもかかわらず、主要な夏至線、冬至線の交点にだけは必ず巨石が置かれていた。あるいは埋められていた。



重要な神社や後の大寺はその夏至線、冬至線の上に載せられた。つまり、両線や交点は十分、意識されていたのである。



後に、日本列島に全く別の方位たる「聖方位」が蘇我氏によって入ってきて以降、夏至線・冬至線の世界は聖方位の世界と混在し、対抗し合い、やがて支配層の世界では新しく聖方位が中心となった。



この日本における方位の問題は、当然、それに伴ったはずの土木工事力も含めて、そこに全国的な政治権力があったことを科学的に推測させる。



全国を統合するものがあったなら、初期段階の帝国が、そうでなければ王国が複数存在した。それは間違いない。

縄文王国と言うべきか、縄文帝国なのか、それとも糸魚川地後退から採れる宝物・翡翠の財力を頼った翡翠の帝国か、それは今分からない。」


2013年4月13日(土)発売、「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)より

 

考古学的に語られる縄文ロマンとはまた違った、なにやら不思議で壮大なスケールが日本列島に潜在していたことが感じられます。こうした独自視線の“栗本版・日本史”も、本書の特徴の一つです。

 

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